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『ゴジラ』の作曲者逝く

ifukube

映画のサントラを聞いていて思うのが、
『クラッシックは確かに大事なんだけど、
クラッシックの基礎+何かのある人が手がけた
曲は惹かれる何かを感じる』ということ。
吹奏楽コンクールで『宇宙戦艦ヤマト』の
テーマソングをキメに持ってくる学校があるのも
ロカビリーの歌手がああいう歌を歌ったからなんだろう
なぁとか、『スターウォーズ』のテーマにしても、
ジャズをかじった人が作った曲だから、ゴチゴチの
サントラにならなくてすんだのかなとか、
曲を作るのには『基礎の要素+アルファ』があると
面白い。名バーテンダーと呼ばれた人が、かつて違う
職業を目指してて、この業界は資金稼ぎの腰掛けの
のつもりで入ったら抜けられなくなったように。
そんな、『ひょうたんからコマ』ではないが…
戦後の映画のサントラの中でも異色だった一つが
『ゴジラ』それを手がけた、伊福部昭さんが
'06年2/8日、多機能不全でお亡くなりになられた
91歳だった。
伊福部さんのディスコグラフィーの中のほんの一部に
すぎないはずの『ゴジラ』のサントラが、特撮映画
ファンにも彼の名前を知らしめることになる。
最初このサントラを聞いたとき、まだ物心も
つかなかった+原子力でああなった怪獣ゴジラという
怪獣の設定もあって
なんでこんなコワい音楽作るんだろうな
というのしかアタマになかったのですが…
伊福部さんの音楽のルーツは、アイヌにあったそうです
北海道釧路市生まれ。'23年5月小学校三年の時,
アイヌ人と東北からの移民が半分の村十勝原野の音更
(おとふけ)に移住したことが彼の後の『曲風』を
決めることとなる。彼の父は、彼を土地の子供たちに
触れさせバイオリンとギターを習わせた。
アイヌ語で、シャアンルル(漠然とした大洋)と
呼ばれる寒村

「少年の時に、アイヌと日本の音楽は
どうしてこうも違うんだろうと、人種が違うと
こんなにも美観が違うということを、ちょうど
外国で育ったように決定的にたたき込まれて
しまったわけです。となるとヨーロッパの
美観などという、我々の血液にないものに
追随してもしようがないのではないか』
後に彼は語る。
幼いころからアイヌの歌や踊りに触れ卒業後は北海道の
林務官などを務めながら、リズムが躍動し土俗的な
エネルギーに満ちた作風を確立。
旧制中学から独学で作曲をはじめ北大農学部在学中に
作った「日本狂詩曲」が'35年、パリで開かれた
作曲コンクールで1位になる
など、若くして
国際的な注目を集めた。
「土俗的三連画」「交響譚詩」などのオーケストラ曲、
少数民族に題材を求めた声楽曲「ギリヤーク族の古き吟誦歌」
などの力作を生み出した。
この人の場合、クラッシック+土俗的作風の音楽が、
あの名作『ゴジラ』を産んだのかもしれないです。
戦後、東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)や
東京音楽大学で教え、芥川也寸志、黛敏郎、松村禎三
ら多くの優秀な作曲家を育てた。
 その一方で、「ビルマの竪琴」「釈迦」など300本を
超す映画音楽を手掛け、映画音楽の名手とうたわれた。
30本以上の怪獣映画の音楽を担当したことで、
クラシックファンを超えた知名度があった。晩年は
再評価が進み、多くの演奏とCD化が行われた。
『音楽は生活の中にあるもの』というのが彼の観念の
一つにあったかもしれない。
昔の曲のリミックスの横行する今、オリジナルを作ることの
意味はどうなのだろう。
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テーマ:音楽・映画・アニメ - ジャンル:ブログ

【 2006/01/28 21:50 】

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さらば軍艦アパート

ここを見る度、昔、叔母が住んでいた公団住宅を思い出す。
私鉄の各駅停車しか止まらないオンボロカ○ーラで
ギリギリ通れる道にあった公団住宅に叔母夫妻が昔
住んでいた。勿論、お風呂はない。
何年かして納屋にお風呂を増築したのだけど、ご近所は、
ダレもオフロなんて増築してるどころか、車も
持ってなくて、公団なので、皆借家。叔母だけが
『買って住んでいた』...要は、あの時代にしては珍しく
『ローンを組んで家を
買いたくなかった』
らしい。
間口二間で、足を踏み入れたらあっという間に裏口、
玄関から裏口までが台所で見たこともない狭さ+
もしゃもしゃの犬までいたことが,あの当時の自分に
とって,叔母の家はワンダーランドも同然だった。
その『叔母の家』と小さい頃の思い出を思い出さずに
居られないのが、大阪浪速区にある通称『軍艦アパート』。
これが、'06年中に老朽化により解体されることが決まった。
現在住んでいる約、190世帯の住民は2月末で、区内の新築の
14階建て市営住宅に移り住むというのですが殆どが高齢者。
震災の復興住宅のことを思い出さずにいられません。
でも、それ以降は立ち入り禁止、三月以降は市が
学術調査に入り、棟の配置や部屋の間取りなどを
図面や写真で記録保存し、終了次第取り壊しに
入るそうです、跡地の利用は未定ともなると、最古の
鉄筋公営住宅をどうして生かさなかったのか、
この一等地の賃借料高騰の中、残さなかった訳を知りたいです。
gunkan

通称、軍艦アパート、下寺,南日東、北日東住宅は
スラム化した長屋地域の住宅地区改良を目的として
大阪市と皇室が1931年(昭和6)年、満州事変の年に、
半ば野放し状態になったアパートに戦争で焼け出された
人々を新たに住まわせる目的で建てました。
南日東、北日東住宅は'01'02年に相次いで壊され最後に
残ったのが下寺住宅。
下寺住宅は約7100平方メートルの敷地に鉄筋3階建ての
8棟が立つ。
当時珍しかった水洗トイレや上層階からごみを捨てる
ダストシュートが完備され、建設当時の大阪朝日新聞は
「堂々たるモダニズム」と報じた。
む~、ワタシの卒業した私立校も一番古い校舎がこれぐらいに
建てられたモノなんですが、やっぱりあります、その,
上からホカすダストボックス
今から思うとモダンというか先行投資だったのかもしれません。
ナゼ『軍艦アパート』と呼ばれるようになったのか、
屋上に並んだかまど用の煙突から煙が立ち上る姿からだそう。
間取りは4.5畳と3畳の居間に台所、トイレを加えた『2K』
(約30平方メートル)が多く、風呂はない。
現在の家賃は1カ月200~300円台。(某新聞の説:
でも月7000円という説も...
いずれにしても安いと思う)木材やトタンを使い、
ベランダに1,2畳の部屋を増築「出家(でや)」と呼ばれ、
子どもが増えて手狭になった家庭の工夫だろう。
’45年の大阪大空襲でも鉄筋だった為焼失を免れたが、
老朽化には勝てず、屋上の塗装ははげ、さびた給水管から
水が漏れ、台所の壁の一部がはがれ落ちている部屋もある。
それでも『他では得られないもの』があるとすれば、
この『地域の絆』なのだろう。
この地域で生まれた70を超える人たちはこういう、
この団地にまだ子供が沢山いたころは、団地の通りに
一銭菓子屋がお菓子を売りにきていたり、住民が縁台を
持ち出して、映画『Always-三丁目の夕日-』や
『じゃりんこチエ』の姿がそのままあったようだったと。
仲間内で助け合う雰囲気もあり、設備関係以外の修繕以外
はすべて住民の手で補ってきた、知らない人は入って
これない雰囲気があったと。
新規入居の募集を行ってなかったこともあり、空き家が増え、
空き巣も起こるようになり、かつて大切にしてきた絆も
どこかへ...と哀しむ。
戦前からの鉄筋の集合住宅としては東京・表参道の顔として
親しまれてきた同潤会青山アパートが有名。
下寺住宅より4年早い'27年に完成したが
'03年8月に取り壊され、今月、「表参道ヒルズ」に
生まれ変わった。
向こうは、一定の収入のある人たちが、お金を費やす
場所へと姿を変えてしまった。
軍艦アパートもそんな形になってしまったら哀しいと思う。
昔からあるものを壊して複合施設にするのは簡単だけれど、
思い出を壊さずに保存する難しさに日本人は気づいてない
のかもしれない。

テーマ:伝えたい事 - ジャンル:ブログ

【 2006/01/21 21:24 】

Culture  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

丸善閉館

京都東映系列映画館(宝塚劇場、スカラ座、京極東宝)の閉館で思い出したのだけど、丸善、丁度、スカラ座にいったついでによく寄ってました。 まだ三条の辺に今はなき『京都朝日シネマ』があった頃にも。『朝日シネマ』は形をかえて、Cocon烏丸に『京都シネマ』として復活することができたから これはいいかもしれないとして・・・。スクリーンもロビーも綺麗になりましたし・・・、タダ個人的に烏丸より三条というロケーションの方がすきだったので、京都シネマオープンしてからホトンド行ってない(爆笑)同じ興行見るのなら梅田で見るほうがいいやと。
'05年、10/10日で閉館してしまった丸善。梶井基次郎の短編小説『檸檬』ゆかりの本屋でもあります。小説のラストで主人公が檸檬を手榴弾に見立て、丸善の平積みにされいる本の上にそっと置いていくシーン、当時人々が一番集う場所は、デパートでもカフェでもなく本屋だったということも。
本屋と上質な洋書、ギャラリーに特化して営業を続けていれば、閉店にならないですんだかもしれないのになぁ・・・、ダックスとか高級品置き始めてから 傾いたような気がすると、よく丸善を利用していた叔母のハナシ。最近では WEBでユーザーレビューを見てお安く洋書を買う人の方が多くなってきて、 実際に手にとって眺めるあの感覚を大事にする人がなくなってきたと思う。 それを教えてくれたのが丸善だっただけに残念だった。洋書の中でも児童書や 写真集を選ぶときには、実際手にとって比べて見ないと、WEBでは限界がある、そんな時に有難い本屋だった。また『丸善』という品格も昔はプラスされていたと思う。
丸善が京都に出店したのは1872年、小説『檸檬』の舞台となった旧店舗は 現在地から400M程はなれた場所にあったという。 丸善本体は京都市内の別の場所で、青山ブックセンターのように復活させたいと言っているが場所は未定だという。
でも、映画館もスポーツジムも二条・・・四条はユ○クロやカラオケショップやドラックストアだらけ・・・いつからこんな再開発計画が立つようになったのでしょう。『儲かればいい』なんて品の無い考えを京都の中心部にまで 持ち越すのはやめて欲しいし、その一方で大枚叩けば、隠れ家のようなスペースでカリスマイントラの個人レッスンが受けられます・・・という一部の成金金持ちだけが個人投資する下種な街にもしてほしくないです。街全体が、 いつもの生活を少しだけガマンして、少しの贅沢を楽しめる街であってほしいものですけど。

テーマ:おこしやす!京都 - ジャンル:地域情報

【 2006/01/19 15:49 】

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さよなら京都東宝系劇場

'06年1/29日付で、京都の中心部、四条~三条にある京極東宝、京都宝塚劇場、京都スカラ座が閉館になります。で、1/28、29日に、各回入替入場料500円均一で『懐かしの名画』をやってくれるそうな。これも施設の老朽化+二条に新しい東映系列のシネコンを作ったから『東映系列を見たい人はそっちへいってくれ』つーコトでせうか(汗)そ・・・それなら、四条~三条に東映系列三館もあるんだから三条にある東宝公楽ブっこわして東映系のシネコンにするかスカラ座+宝塚劇場を一まとめでシネコンにすれば、四条の角地だし~二条のような辺鄙なトコに映画館なんぞ作らんでも・・・(ゴメンなさい、でも地元の人間に聞くとホトンドの人がブーたれてる事実)。でもって、スカラ座の跡地に何が入るって聞いたらユニクロ~???
あのなぁ、ユニクロ、新京極にデカイのが一件あるのにまだ作るのかい?もう飽きたわ(爆)地下1階~7階までユニクロ(頭フラフラ・・・)で8,9階は、まだ関東圏しか進出してないフィットネスクラブ、Wow'D二階部分までしかないつーコトはプールナシ。この手のクラブの生存競争最近激しいから、新京極にあった某フランチャイズ系フィットネスクラブのように○年でブっつぶれたりして(汗)。でもって、京極東宝は地下一階地上10階の飲食店も入るビジネスホテルになるそうな。ビシネスホテルねぇ・・・OPAのウラって風俗の店多いから、オシャレ系のホテル建てようにもムリあったんでしょうねぇ。で、<b>再開発費用は京宝ビル(スカラ座+宝塚劇場)約42億円、京極東宝ビル(京極東宝)約16億円だそうです。重役連中は『映画館はなくなるが、繁盛すりゃいい』みたいなコトのたまってますが個人的には映画館をこれ以上市内の中心部より辺鄙なトコに置かない方がいいのと違いますか??と思う・・・。
'35年(昭和10)年に宝塚劇場が映画+劇場として誕生し、'45年~'51年にGHQの接収を経て,'56年に洋画専門のスカラ座を併設、'54年に京極東宝をオープンさせ京都の東映映画を東宝公楽共々支えてきた映画館だったかも知れません。京都で映画を見なくなってかなりになりますが、最後に見たのはスカラ座での『スターウォーズエピソード1:ファントムメナス』でした。シネコン方式でもないし、スターウォーズの続編だというアレもあって、一時間半前から劇場に並んでようやく座れて周りを見たら立ち見の人まで。その頃から『いつこの映画館なくなるかも・・・』という噂もたっていた映画館でしたが、やっぱり残念です。各映画館の詳細+最終興行は以下の通りになります。
【京都宝塚劇場】
スタジアム方式の座席が昔劇場だったコトを思い出させます。 ジョニデの『フェイク』をここに見に行ったとき『お尻シビレル・・・』と ジョニデファンの友人の前でボヤけず(汗)。
1/28(土)『太陽がいっぱい』10:30~12:35
『十戒』14:00~17:45
『ローマの休日』18:30~20:30
1/29(日)『日本沈没』11:30~13:55
 『七人の侍』15:30~19:00
sukaraza

【京都スカラ座】 宝塚劇場とあわせた席数は1091席+車椅子4席(完全入替制) SR、SR-D、DTS、SDDS他対応 '02年7月場内・ロビー全面改装 プレミアシート常設
(前後120CM・幅60CM・サイドテーブル付き)
一般席(前後110cm・幅50cm)
1/28(土)『日本のいちばん長い日』11:00~13:40
『用心棒』15:00~16:50 『また逢う日まで』18:00~19:50
1/29(日)『ベン・ハー』11:00~15:00 『街の灯』16:30~17:55
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【京極東宝】
『ゴールデンアイ』を見に行った頃には京極東宝って地下一階の1しかなかったのに・・・とおもったら翌年の'96年に2,3をオープンしてました。
スクリーン1・400 スクリーン2・139 スクリーン3・100席
窓口では、7日先までの入場券を事前にお求め頂ける、日時予約サービスも実施、SRD-EX、DTS、SDDS他対応、最終興行は勿論400席ある1です。
kyougoku2

1/28(土)『戦場にかける橋』11:30~14:05
 『ジョニーは戦場へ行った』15:30~17:25
 『海底軍艦』19:00~20:35
1/29(日)『荒野の七人』10:30~12:40
 『慕情』14:00~15:45『帰らざる河』17:00~18:30
確かこの最終興行の両日は各映画館に懐かしの映画ポスターも飾ってあり、ドリンク100円均一だったような・・。

テーマ:映画館 - ジャンル:映画

【 2006/01/17 21:29 】

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『がんこ』会長財界トップに

ganko

水泳の飲み会の会場で、ネタが尽きると行ったのが『がんこ』
あれだけグルメ情報誌に割引券だの、新しいお店だの、オトクなお店だの沢山出ていて、何回か食べ歩けば少人数の宴会の予約は取れるだろうに…と思いつつ、土壇場になると、考えるのが面倒+年齢層の幅広さ(幹事の年齢から幹事の両親ぐらいの年齢まで来る)、飲み放題にして、
それ程食べ物の質を落とさないで済む、オマケにケチで偏食
と考えたら、適度なフランチャイズのところに落ち着いたのかもしれない。そんな、『がんこ』の創業者って誰なんだろう。

'06年、関西経済同友会代表に、『がんこ』創業者、小嶋 淳司がついた。
御歳70歳、日本の中流階級がしっかりと食文化を支えてきた頃に社会の中心にいた一人でもある。美味しく食べられることに希望を感じ、ありがたいと思って外食産業に挑んだ世代でもあるかもしれない。
和歌山県内の雑貨店に生まれ同志社大を卒業後会社勤めに興味を持てず昭和38年に大阪、十三で4坪半の寿司店『がんこ』を開いた。店名の由来は学生時代のあだ名から、店のトレードマークにもなっている、鉢巻姿のアレは創業当時の会長なのだそうだ。創業二年後には十三本店も複合店に、'81年にはなんば進出、'90年代には、関東、神戸進出、
'05年には故郷に錦を飾ることが出来一代で、チェーン店90店、年商200億の飲食チェーン店になった。
研究熱心でもある。京都二条店の店構えは、江戸初期の豪商、角倉了以の別邸を生かして作っている
(…それだけに、土壇場でここの予約はとれない…)
とっておきの人と、前もって調べた、スノッブなお店にいくのもいいかもしれない。前にそういうお店にいくのが好きで、こういうチェーン店にいくのが個人的に好きじゃないという人に出会ったことがある。でもどうなんだろう…。 飲み会にホトンド行く機会もなく、こういうチェーン店には、お仲間とワイワイいくだけの私にとって、こういう店はあってほしいのだけれど。

テーマ:経営 - ジャンル:政治・経済

【 2006/01/14 22:36 】

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『ホテル・ルワンダ』のホテルマンの真意

hotelruwanda

14日から『ホテルルワンダ』が公開になる。
'94年にルワンダで起きた大虐殺の中、1200人の命を救った
ホテルマンの話である。
ルワンダの民族はフツ族とツチ族に大分され、第一次世界大戦でベルギーの支配下となったこの国は、白人の考えで、ほんのわずかに肌の色が薄かった事と、民族として大きかっただけでフツ族が教育、経済で優遇されてしまうこととなった。二つの民族が内部抗争を続け怒りが爆発したのが、'94年のルワンダ大虐殺。が、アメリカをはじめヨーロッパ、国連も『第三世界』のことと 目を背け、日の目を浴びたのは10年後、'04年12/22年の
シカゴトリビューンのインタビューだった。
ルワンダの首都ギガリにあるベルギー系高級ホテル『ミル・コリン・ホテル』の副総支配人、ポール・ルセサバギナ(Paul Rusesabagiba)は『ホテルマンとして当たり前のことをしただけ。ああいう状況下では考える暇がなかったことがかえって幸運だったかもしれません』と述べた。トロント映画祭で彼はこの映画の上映を見た後に、『人生最良の夜』と言ったという。
『今まで伝えたかったことがようやく日の目を見た』ということなのだろう。
'94年の4月の朝、外を見るとツチ族の隣家はナタなどで襲われ絶命していた。 街は首や手足のない死体で溢れ、自分はフツ族だが、妻はツチ族・・・妻を守る為にも車で脱出を図ったが民兵に止められ妻子を撃つように迫られ賄賂を渡してしのいだ、それが約100日間に100万人が殺された大虐殺の始まりに過ぎなかった。自らが副総支配人を勤めるホテルに逃げ込むとツチ族の人々で溢れかえっていた。警備の国連軍は撤退していく中、避難者は1200人に膨れ上がり、ホテルマンとして背水の陣を引きながら、はったり、 賄賂、有力者との取引で、
76日間拒み続け反政府軍に脱出した。
大虐殺の二年後、'96年にベルギーに亡命、今は運送会社経営の傍ら、
虐殺の真実を語り続ける。
その実体験が元となった映画『ホテルルワンダ』。
映画は高い評価を受け配給権が高騰、映画会社が二の足を踏んだが、
映画ファンの署名が集まり、日本公開にこぎつけた。
'06年1月初旬に映画の為来日。自らの平和のメッセージがつたわれば・・・という。
映画の中で、虐殺の始まる前、ポールが権力を握るフツ族の民兵リーダーの元へ食料を調達しにいくシーンがあるが、そこでポールは後で虐殺に使われる大量の鉈を見つける。それを民兵のリーダー、ジョルジュは得意げに、『これは 中国から安価で仕入れた』というのだ。ここに注目しなければならない。 アフリカの労働賃金は中国より安く叩かれているのが現状で、殆どの先進国の人間は途上国の人々は、教育も受けられず低賃金で働かされてるから国が栄えないとだけしか思ってないのではないだろうか
ここでつきつけられる現実は、当時、ルワンダには鉈さえ作れない、その労働力を先進国から買われることもない現実を画面から 突きつけられるのだ。もしも、彼らに鉈をつくる技術があったとしたら、あそこまで似ている民族間の虐殺は起きなかった。戦利品として頂戴したベルギーの思うままになっていたことにも気づいた人間もいたはずだ。どうして自分たちの労働力はベルギーに買われないのか、それを疑問に思うだろう。国際紛争の映画を見るときには『自分の目』でなく『土地の目』で見なくてはいけない。しみじみと感じる映画である。

テーマ:絶対見てほしい洋画 - ジャンル:映画

【 2006/01/13 21:14 】

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刑事モノを演じ続けた男の新境地

wataritetsuya

刑事モノで『一番憧れの俳優』ったらやっぱりこの人でしょう~。 うふふのふ。
いや、自分の親っていっても可笑しくない年ですけどね(爆笑)。
こんな『お父さん』だったらオムコさん蹴っ倒して、お父さんに恋してしまうわ(爆)
というは、舘ひろし、柴田恭平、で、何といっても渡哲也。
以前、オバチャン悪友と『渡さんか、渡瀬さんか』と、ぎゃぁぎゃぁ論争になり、
向こうは『渡さんはいつも同じ役だから面白くない』。

そ、そういう弟もタ○シードライバーと十○川警部のレギュラーと
違うんかい(汗)??
渡さんが役幅を広げられなかった+ステレオタイプの役しか
まわってこなかった最大の理由が、石原プロに滅私奉公してきた、
と言っても過言ではないでしょか。
イメージとして、『渡哲也=大門圭介』 とワタシのようについこの間まで
思っていた輩もいるかも しれません。
その『大門圭介』を好きだった人間は、いいとしても、そうでない人間も
いたかもしれない、で演じてる本人はというと、
「俳優・渡哲也という部分だけに限って、石原プロに所属したことが
良かったのか、あるいは悪かったのかと問われれば、おそらく
自分は後者だと思います」
とご本人は仰っておられます。

実は見ていてシビれた大門隊長のショットガンの登場シーンは
『一番やってられない』シーンだったそうだ。
『俳優は一匹狼であるべし』という考えの彼にとって石原プロは
『やりたい事を選ばせてくれる魅力的なプロダクション』になるはずだった。
それが、裕次郎が映画で作った借金返済の為に意に反した
TV出演で滅私奉公をしなくてはいけなくなる。
『裕次郎さんが映画を作るとさえ言ってくれれば・・・』それはやがて
裕次郎本人へと矛先が向かっていく。しかし、
そんな渡を誰より心配していたのは裕次郎だったのは、
『西部警察』の最終回で判明した事実だった。
ご承知の通り、大門圭介は殉職するラストに裕次郎演ずる
木暮刑事が大門隊長の亡骸に語り掛ける台詞は
台本とは別物だったらしい

『疲れただろう。だから眠っているんだろう。違うか。頼む、
一言でいい。何とか言ってくれ,俺はなあ、あんたが、
弟みたいに好きだった...。ありがとう...ありがとう...!』

裕次郎は、判っていたのだ。渡が滅私奉公していたことを、
それを止めることができない自分のジレンマを、そしてそのとき、
裕次郎の体は肝臓癌に犯されていた。それから数年後、
渡自身も直腸癌に犯され虎ノ門病院に入院することとなる。
この時期が、丁度うちの父親とダブってねぇ、
親は助からなかったのに渡哲也は助かったんだよねぇ。
彼じゃなかったら怒り狂っていたと思う当時だったのよ。

それぐらい好きな俳優です。
某細○さんに『今年は何をやっても成功する』と言われても
イマイチ不安そうな顔をしていたのは、本音としては映画を
作りたかったのでしょうね。でも盟友であり先輩でもある
裕次郎の例が怖くて、石橋を叩かないと渡れない、
自分が失敗すると自分だけで済まない・・・という不安が
社長としてあるのだと思います。
その『何をやっても成功する』と言われた年に、『祇園囃子』で、
消息不明になっていた男を皮切りに、『義経』の平清盛、
『熟年離婚』では橋梁会社のたたき上げ部長で
松阪慶子演じる奥さんに定年退職の日に突然離婚される旦那、
念願の映画『男たちの大和』と、今までのくすぶりを破るように
がんばっておられたと思います。

この社長だからこそ、石原軍団ならぬ大門軍団の屋台骨は
しっかりしてるのでしょうね。

テーマ:俳優・女優 - ジャンル:映画

【 2006/01/12 16:53 】

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