普段目にしたり聞いたりして興味を持った雑学を集めてみました。新聞からお笑い、TVドラマ、ふと目にするものの由来までどうぞ。
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トレーサビリティもなかった明治時代から
管理品質に徹底した肉屋が神戸にある。
JR元町駅の元町穴門商店街、ガラス張りの店の前を常連客が通る
1903年(明治36年)創業の『辰屋』だ
辰巳商店の名前で創業し、神戸で最も古く信頼ある食肉店の一つである
阪神大震災まではハムやソーセージなどの加工商品も手がけていたが
震災後に加工工場が被災し、以後は神戸ビーフ一本勝負に出た
自らの店も被災しているにも関わらず、炊き出しに
店の肉を惜しげもなく提供した
『何とか街を元気つけようと、他の店もカニから
伊勢海老から何でもだして、こんなの金だしても喰えんって
ぐらい豪快な炊き出しをやりました』
という太っ腹ぶりはすばらしい
東京や神奈川などにも顧客は広がる。
『ホテルで焼いてもらう』という外国人もいるという
神戸ビーフの認定は厳しい。
兵庫県畜産課によると、生まれてから食肉加工されるまでに
全て県内で過ごす黒毛和牛『但馬牛』のうち、食用になる部位が
大きく5段階の等級で肉質が上位の5か4に格付けされ
『霜降り』の状態が12段階で上位7段階に入るものだけが
業界団体から認定される
『客の立場にたって肉を選び正直に売る
この質でこの値段は安いといってもらえることが
最高の喜び』という
『看板に偽りなし』を貫く辰屋は格付け最高ランクA5しか占いという看板は出さない
レストランにおろして商売が成功する店もあるのだろうが、
『自分の目の届く範囲でしか商売はしない』という姿勢を貫き、
小売にこだわり、店もふやさない
ただ『業態はかえる』と肉の通信販売は今から40年前から鉄道貨物を使って
はじめていた
現在の4代目店長辰巳真一さん('10年現在53歳)は小学生の頃から
手伝いをさせられていたという
ただ
『商売の本質は売り方の形態がかわっても同じ』という
どんな肉を購入したか、好みは、家族構成は、記念日は、
顧客ごとに好まれる肉を選び、売る、それは店頭でもネットでも変わらない
極論、信用の積み重ねということなのだろう
『和食のいいお店が少ない兵庫の中でおすすめ』の
お店として載っているお店『子孫』
駅からも遠く、地元の人間でもわかりづらい住宅街の中にある
元々は現在のご主人さんのお父様がお祖父さまから受け継がれた 同名の旅館
現在の料理長、藤原研一氏('10年現在43歳)は、料理に腕を 振るう父親の背中を見て育ち、滋賀に本店のある『招福楼』に 修行にいかれたそうです
転機となったのは'95年の阪神大震災
修行先から戻ってきた研一氏を待っていたのは崩壊した街と、全壊した旅館。 35歳で独立をきめたとき、この旅館の跡地にたっていた。 祖父が『子や孫の代まで続くように』という願いをこめて昭和初期にたてた由緒ある旅館。 駅前への出店も考えたが『やはり祖父と父が残したこの地で』という思いの方が強かった
料理の中で最も自信があるのは『ダシ』
手間隙を存分にかける。力をそそいだ広く豊かな庭園も評判になり、客はゆっくりと増えていった
’10年、神戸地域のミシュランガイドの対象となり、三ツ星となる
『日本のよさがこの土地から伝わっていけば』と意気込む彼は今日も身をひきしめる
小さい文字
皆よくならぶな~、え?これバームクーヘン一つだけなの?
'99年に阪神百貨店梅田本店に出店して以来、
クラブハリエのバームクーヘンは、ハラダのラスクが
出店するまでその地位を不動のものにしてきた
当事のバームクーヘンといえば結婚式の引き出物の
定番でかたいのが当たり前
カステラとのあいのこぐらいにやわらかくできないかという
ことで単品勝負にでたらあたった
たねやの創業は明治5年、『種家末廣』の屋号で初代が創業
以前は名前どおり種苗業を営んでいたので
『たねやさんのお菓子』といわれたらしい
洋菓子を作り始めたのは1951年(昭和26年)
近江八幡を拠点に、あの建築家ヴォーリズに
薦められて『たねや』の軒先で洋菓子を作ってきた
現在グループ全体の洋菓子と和菓子の売り上げはほぼ半分。
商売の飛躍のきっかけとなったのは1984年(かなりたった)
日本橋三越への出店
85年に出した『ふくみ天秤』はいまや、あちこちの和菓子メーカーが
当たり前のようにマネをしているが
アンコと皮が別々のモナカ、
もともとはたねやが実用新案をだしたものだった
社長いわく
『マネされてもいい、常にオピニオンリーダーでなければいけない』
'98年には優秀な職人を作ろうと職業訓練校を開業
パティシエを目指す若者が集まる製造現場からチャンピオンを輩出している
近江商人発祥の大企業はほとんど県外へ
出て行ってしまった
しかしたねやは
『京都が奥座敷なら滋賀は台所、こちらから売りにいけばいい』
と地産地消にも着手し土地の活性化に
着手しているようだ。
買物難民―もうひとつの高齢者問題 (2008/09) 杉田 聡 商品詳細を見る |
内閣府が'05年に調査した高齢者の意識調査の結果から
買物難民といわれる人は600万人とも言われる、今では
もっと増えているだろう
『誰もが老いる。近所の小売店はライフラインという認識は大事、
自助や民間参入が難しいところでは行政が向き合うべき』と杉田さんは
いう、さらに買物難民最大の原因として
人口減少と小売店の後継者不足が要因であり、'80年代以降
郊外への大規模店舗進出規制緩和が影響したのが大きいと
指摘する声がある
'07年の全国の小売店はピーク時だった'82年に比べて3割減
身近な店は消え、車が無くては生きていけないように締め出している
高知県と愛媛県の県境の山間の小さな町、仁淀川町
町のほとんどが高齢者の過疎地だ
マイクロバスを改造した車に生鮮食品から日用品まで350品目を積む
移動販売車『ハッピーライナー』がやってきた
刺身、豚肉、牛乳など3000円分を買った農家の女性は80歳を超え、
還暦を過ぎた娘と二人暮し
車を運転できた夫が23年前になくなってから移動販売車を利用している。
『これが命綱よ、なくなると困るけん、毎回できるだけ買うようにしとる』
車があったとしても一番近いスーパーまでは30分以上かかる
『ハッピーライナ』は中堅スーパー『サンプラザ(本社:土佐市)』が運行する一台
佐川町の店舗で商品を積み、午前9時半に出発
点在する集落を順番に訪れる。一箇所あたり1~5人は週2回やってくる車を
待っている、大半は60代~80代の女性だ。
運転手の田島さん('11年現在60歳)は8年前、食品会社をリストラされ
ハッピーライナーの運転手に
当時、このコースは120人。
今では都会にすむ子供にひきとられたり80人程にへった
道中、耕作されずに荒れた田端や住む人を失って朽ちた民家をいくつも見る
午後6時、佐川町に帰ってきた、27箇所周り、購入者は59人、売り上げは
14万5千円『雨にしてはいい方』という
田島さんはつぶやく
『頼られとるっちゅうのはわかっとる、でも慈善事業じゃないけん、いつまで
続けられるかなぁ』
高知県によると、県内で移動販売業者は34業者
サンプラザは最大手で6台営業する
顧客は2000人以上、13市町村を回るこの店もガソリン急騰のあおりを受け
数百万の赤字を出してしまった
一時は撤退を考えたときに、国からの補助金が出、車両の代替費用を3分の2
出してもらえるようになった
補助をうけた業者は5年間の事業継続が義務つけられる
こんな例もある
福岡県いわき市の泉が丘ハイタウン
県内の中堅スーパーとヤマト運輸のタイアップによるタッチパネル方式による
宅配スーパーの説明会があった
参加した60代~80代の数は10人弱
団地は'80年代に山を削って造成された。『港の見える丘』というふれこみで
県内や首都圏から移り住んだ、4900人が暮らす
説明会に参加した80代の女性は、20年前にこのニュータウンにきた
まさかこんな目にあうとは思いもよらなかったという
’07年に徒歩10分のところにあったスーパーが閉店
品揃え豊かなスーパーが団地外に出来て客を徐々に奪われていったのだ
夫は17年前になくなった。
運転免許はなく、路線バスも走ってない、買物をするには坂を下って
約2km先のスーパーまで歩かなくてはいけない
足が悪く途中で休憩しながら40分かけて歩く。帰りはタクシーだ
『これじゃ死活問題だ放っておけない』
地域の自治会長・大川原旭さん('11年現在76歳)は農家との協力で
青空市をはじめ、今回のネットスーパーの運用に踏み切った。
もし、行政も企業も誰も手を差し伸べてくれなかったのなら
大分県中津市耶馬渓町の津民地区。
山あいの平屋の入り口に『ノートン』とペンキで書いた看板がかかっている
'05年に住民が共同出資してたてた手作りの店だった
一人で切り盛りする店長の中畑栄子さん('11年現在77歳)は
『ここはJA支所の建物だったのよ』という
JAが統廃合され食料品や日用品を売る店がなくなった、
車のない年寄りが困ってると聞き、NGOを発足させてここを開いた
会員は現在70人。
入会金2000円、年会費1000円、経営は決して楽ではないが
年間1800人は訪れる
『行政に頼るだけじゃダメ。自分たちで動き民間事業者との連携もかかせません』
テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済
賞味期限おっかなくきれてる食品バカウレ状態
たら響きわるいかもしれんけど。そんな店がある。
『店の一角にそのての商品を市価の半額以下で提供してる』
というのが正しいのだけど。
食味期限偽造などが判明する中、東京・亀戸にある
『サンケイスーパー』ではそうした食品を『もったいない食品』
として売っている
きっかけは七年前、大手冷凍食品メーカーの冷凍トラックが
店の前に止まり
『都内の冷凍倉庫を統廃合することになった、
ただでいいから商品を引き取ってくれ
と懇願されたことだった。
トラックいっぱいの冷凍食品の中には
最大賞味期限4年すぎてるものも(滝汗)
『ウチがひきとらなきゃホカすんだろ』とここの社長ひきとった。
こわごわと食べてみたらウマい。
冷凍庫では零下37度で保存してたから何も問題なかったそうな。
これなら大丈夫と、売り出した社長。
しかも!堂々と『賞味期限きれとるで』って言って(爆笑)、
保険所はもちろん飛んできた
社長も社長で『この商品もってかえって問題あったら何かいってよ』とな
トラックいっぱいの商品は一日半で完売、価格は市価の1/10で販売してたそうな
スーパーというのは2万ぐらいの食料品を入れるのだそうけれど、
全部が賞味期限内に売れるわけではない
売れのこりはペナルティを払い、返品するのだが、全部廃棄
『まだ食べられるのにもったいないなぁ』という意識は
経営者としてもあったという
この一件以来、試食した上で、賞味期限ぎれの食品を市価の半額で
発売すると喜ばれるようになったという。前の日に出すと翌日完売。
売れ残りが少なくなるように、仕入れを慎重にする意味でもいいのだという
従業員が一度試食することで、食中毒という被害は一度も出ていない
万が一そのようなことがあっても、スーパーというのは団体保険に入っているので
治療費などの損害保険は出せる上、賞味期限切れというのを任意の上で購入する
客のサイドにも責任のいったんはある
そもそも『賞味期限』が義務化されるまでは自分の五感で食料の安全を確認していた。
こうした『期限』はおいしく食べられる目安としてつけられたものであり、
人間の『五感』を鈍らせているとも社長はいう。
でも、サスガに油モノで賞味期限何年もすぎてたら『あぶらまわってて』あたるだろうな
とは思うけど・・・