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かつての盟友が語るヴィン・ラディン~イブラビム・サヌーシ~

samushi
『オサマがスーダンに留まっていれば同時多発テロは起きなかった』
'92年にスーダン与党、民族イスラム戦線幹部だったイブラヒム・サヌーシは
首都ハルツームで、かつての盟友・ビン・ラディンのあっけない最期を知った。

『スーダンに居ればオサマは我々のもとで事業に熱中していたかもしれない。
戦乱の続くアフガンの激しい環境が彼に戦いの道を選ばせた。
追い込んだのは米国と国際社会だ』


ビン・ラディンが東西冷戦時の'80年代、イスラム義勇兵としてアフガンに渡り
米国に翻弄されてきたことは記憶にも新しい。
ソ連と戦い、間接的に米国の支援を受け、母国サウジアラビアとも協力関係にあった

しかしオサマが帰国した'91年、政情は変わる

湾岸戦争が始まり、サウジが『異教徒』である米国の駐留を認めたことを批判した
ヴィン・ラディンは国籍を剥奪され、スーダンに渡った。
要は国の利益の為に、宗教もへったくれもなくなった事実をついただけなのに
御国を追い出されたというワケなのだ。

この時点で、ヴィン・ラディンの敵は完全に米国に変わってる。
なんちゅーても祖国サウジをめちゃくちゃにして、
一家離散に追い込んでるから。

家族の中には彼と二回しかあったことがないのに苗字だけで
『テロリスト』扱いをうけた人もいる
遅すぎないうちに遅すぎないうちに
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その怒りの矛先をヴィン・ラディンは最初、米国にいじめられてた
スーダンに向けた、よしこの国を復興させてギャフンと言わせたれ。
幹線道路の整備や空港建設、当時のバシル政権は、せっせと働く
ヴィンラディンを重宝した

しかしバシルは手のひらを返したかのようにヴィンラディンを追い出すのだ
何で?というと、経済制裁、経済的いじめである。
欧州や日本がスーダンへの進出を控える中、中国国営製油会社CNPCが
ここぞとばかりにスーダンにビジネスの機会を求めて進出してきた

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映画『シリアナ』の世界そのまんまである。
マット・ディモン演じる米国人ビジネスマンが会社を裏切ってサウジの王子に
中国経由で石油パイプラインを引いたらどうだ?と提案するシーンがあるが
まさしくそれなのだ

そんな国際間の燃料闇ビジネスの中で、『知りすぎた男』ヴィン・ラディンは
邪魔者になった
バシルは米国とサウジに身柄引取りを持ちかけたが拒否られ、
ヴィン・ラディンは故郷を失い、タリバーンへと身を落とした

全ては国策に1人の男を利用した、国の責任だ。

ヴィン・ラディンは、そこからエジプト人過激派・アイマン・ザワヒリと共に
米国に対する『宣戦布告』を出し、'98年にはケニア及びタンザニアの
米国大使館爆破テロを遂行、そして米国同時多発テロが起きた

アフガン、イラクでは今でも流血が相次ぐ、
しかし独裁政権が倒れデモに熱中する青年らはヴィン・ラディンに関心を示さない
アラブの春と言われた、5月2日、パキスタン北部のアボタバート
妻の目の前で殺された国際的テロリストの死を悼むのはかつての盟友のみ

存在を殺す事は簡単な一面もある、しかし、何かを守らなければ歴史は繰り返す。
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テーマ:テロリズム - ジャンル:政治・経済

【 2011/09/11 11:33 】

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戦後版光岡?たま電気自動車~GT-Rを作った会社はやっぱりスゴい~

tama_zidousya
日産があれだけ『GT-R』を神様のように崇め奉るのは何故だろうか。
排ガス規制前に登場した『羊の皮を被った狼』GT-Rだけじゃない。R380もしかり。
それを生み出した母体の会社『プリンス』に魅力があるのではないか

皇室用御料車もプリンスだし。元々は飛行機の会社だし。
案外知られてないのが、『たま自動車』という電気自動車が母体であること。
ぎゃにぃぃ?GT-R作ってる会社がダサイモ電気自動車?!
その影には戦後不況があった。

戦後の東京・府中
GHQの命令により飛行場工場が解体され、工場従業員は戦後、
米軍人用のジュラルミン棺おけを作るなどして糊口をしのいでいた
敵機よりも速く遠くへと精を出してきた飛行機職人にとって屈辱の日々
だが飛行機製造は米軍で禁じられている

ならば自動車だ!

しかし戦後の日本にはガソリンがなく木炭を燃料にした改造自動車が走り、
その一方で工場が空襲で焼かれてしまった為、
水力発電でも国内の電気は補えた。
ならば鉛蓄電池による電気自動車を作ろう。
今では信じられないかもしれないが、バッテリーだけで動く自動車なのだ(爆)

'46年に石川島飛行機製作所を前身とする立川飛行機は終戦を機に
電気自動車製造へと進出する
会社名を『東京電気自動車』に変え、時代の幕開けをリードしていこうとしていた

シャシーやボディはオオタから引継ぎ、エンジンだけはオリジナルという
光岡自動車みたいなコトをやってのけ(爆)
「EOT-47」(写真)完成。
最初の市販形電気自動車を発表、ネーミングがダサい、工場の地元だからって

『たま』

・・・ってフツー、車につける名前じゃないだろうよ、ポチとか犬じゃあるめぇし
しかもだよ、この車発表した後の会社名は『たま電気自動車』
どんだけぇぇぇ?

最高速度35km/h、航続距離65kmと原付も青くなるほど遅いんだが
そこらへんはこの時代。
この時代に充電池をホイールベースの脇の所のカバーをパカっとあけて交換できる
ってのはかなり革新的だったそうで
電気自動車を作ってた会社は当時4社あったそうなんだが、
その中でもこの会社は郡をぬいてトップシェアに躍り出る

'47年から’50年まで1120台という脅威の台数を作ったこの会社
『最盛期には東京、大阪、名古屋、京都のタクシーは皆うちの
会社だった』

そう振り返るのは田中次郎('11年現在94歳)

スカイライン設計者である

彼は東京電気自動車社長の外山保氏と共に陸軍航空技術研究所に所属し
軍用機を設計していた
そして電気自動車製造部門では、鉛蓄電池の強度試験の指導に当たっていた

しかし、’50年代、朝鮮戦争勃発で銃弾に使う鉛の需要で鉛の価格が高騰
さらに米国によるムリヤリな重化学工業への転換
ガソリンが日本に入り始めたのはこの時だった。
この頃会社も企業方針転換が求められガソリン車としての初めてのモデルを出し
名前も『プリンス』と変更

米国への抵抗は米国により押しつぶされ、それは豊かさと勘違いする人も
いるかもしれない
この技術がもしもいかされてるとすれば、現在は光岡のような気もする
何でかというと、あの電気自動車のシャシーベースとなったオオタは
ダットサンと自己破産するまで張り合い、最終的にはよきライバルであった
ダットサンに技術提供してるのだから。

テーマ:車関係なんでも - ジャンル:車・バイク

【 2011/06/25 13:08 】

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麻薬王の父の罪への贖罪

fansebascianmarokin
コロンビアの麻薬王の長男が犠牲者の遺族を尋ねる贖罪の旅に出かけている。

'70年代に『メデジンカルテル』と呼ばれる麻薬取引の犯罪組織を
築き、最盛期には世界のコカイン市場の8割を占めたと言われる
コロンビアの麻薬王、パブロ・エスコバル。
経済誌フォーブスで『世界で10指に入る富豪』と位置づけられたことも。
コロンビア大統領候補者を殺害したり、航空機やビルの爆破
『父のせいでなくなった犠牲者は3000人から4000人に近い』

長男で建築家のファン・セバスチャン・マロキンさん('10年現在33歳)は
元の名をファン・パブロ・エスコバル、父親と同じ姓を持つ
自分には優しく良き父親で、幼い頃は麻薬取引の中心のコロンビア西部
メデジンの豪邸で暮らしていた。
邸内に動物園があり、カバやシマウマがいたという
週末には地元の家族連れが訪れ、
多い日には一日に25000人も自宅に来る程だった

『貧しい家に生まれた父は麻薬取引でもうけた巨万の富で、
貧しい人々に5000件の家をたて、国会議員にもなった』

しかし道理に反することで慈善をしても批難される。
マロキンさんが7歳の時、父を麻薬密売業者と批難した当時の法相
ロドリゴ・ララ・ボニーヤが殺された
父親が殺したと発覚して以来、ライバル組織との抗争や
コロンビア当局との抗争が激化、家族で逃げ回るようになる。

16歳のある日、父が殺された。
影響力のある父を失い、裸一貫で放り出された母と幼い妹と三人
国外に亡命しようとしたが100カ国以上の国にビザ発給を断られた。
名前を変え素性を隠し、アルゼンチンのブエノスアイレスで暮らした。

大学を卒業後、建築家に。
『父の壊してきたものを僕は立て直したい』

'04年、父エスコバルの被害者と加害者の双方の視点からドキュメンタリーを
作りたいとアルゼンチンの映画監督から申し出があった。
半年考え受け入れた。
父が殺したボニーヤ法相の息子に謝罪の手紙を書いた。
面会して謝りたいと頼むとコロンビアからアルゼンチンまで訪ねてくれた。
親が敵同士だった2人の面会の瞬間をカメラが捕らえた。
これがドキュメンタリー映画『父の罪』になって世界中で上映され
欧州や南米のドキュメンタリー映画のフェスティバルで賞をとった。

これまで会った遺族は40人程。
これからも続ける予定だという。
『過去は変えられないが未来は変えられる』
『父は貧しさのために進学できず麻薬の道に進んだ。貧しくても
高等教育を受けられるようになればコロンビアにも平和は訪れる』
贖罪の旅を続ける麻薬王の息子はこう語る。

テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

【 2010/09/28 16:54 】

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日本に召集された記憶~『農耕隊』~

noukoutai
太平洋戦争末期、日本で農作業に従事する軍服姿の
朝鮮人がいた。
彼らは『農耕勤務隊』と呼ばれ、『本土決戦』が叫ばれる中
燃料量のイモを生産するために働いていた。
しかし記載が少なく実態が不明のままで今日に至る中
幼い頃に見た記憶を辿り,青山大学名誉教授の
雨宮剛さん(写真左'08年当時73歳)が調査を始めた
'08年8月5日に韓国ソウルで元隊員だった、李喜元
(イ・ヒウォン)さん('08年現在85歳)と出会い当時について
語り合った。

『私の話が参考になるかわかりませんが』
李さんはそう切り出した
ソウル市北西にある江華島出身。ソウル近郊の工場に
勤めてたが『軍事教練』を受けた後500人ぐらいの朝鮮人と
ともに韓国・釜山から船に乗せられて山口県下関についた
途中で何班かに分けられ50人ほどで愛知県へ連れて行かれた
『創氏改名』で『青木達元』と名乗らされたことも記憶している

全性圭(チョン・ソンジュ)さん('08年現在84歳)は
『私は拳母(ころも)町(愛知県豊田市)にいました』とたどたどしい
日本語で話した後韓国語で一気に話した。
『拳母町では山を開拓して飛行機の油がないからそのための
サツマイモを作りました。時々米国の飛行機が飛んできて機銃を
撃った。仲間が何人か撃たれた』
韓明珠(ハン・ミョンス)さん('08年当時84歳)は語る
『お寺のようなところに駐屯していました。逃げ出そうとした人も
居ましたが、すぐにつかまり酷い目にあったようです』

3人とも終戦とともに開放され数ヶ月後に帰国、ソウルで暮らしている。

戦況が悪化した'45年1月、旧陸軍は『農耕勤務動員要領』を作成
航空機燃料用の甘藷の栽培が目的と見られ、要領の中に
『4月下旬に朝鮮半島出身者と交代させる』
という趣旨の記述があった。
当初は日本人の作業にあたってた可能性がある。
前年の'44年には朝鮮半島出身者の徴兵が始まっていた
雨宮さんによると、徴兵検査には日本語が不自由だったり
体格がよくなかったという理由で戦地へ送り込まれなかった
朝鮮人が『農耕勤務隊』に充てられたとみられる。

雨宮さんが初めて農耕隊を見たのは'45年春だった。
10歳だった雨宮さんは愛知県猿投村(豊田市)の
自宅近くでボロボロの軍服を着て鍬を担ぐ集団をみた
集団は荒地を開拓していく。
『兵隊さん』と声をかけても返事がなかった。
突然村に現れた集団は国民学校でも話題になった。
終戦を過ぎると見かけなくなった。

雨宮さんは大学で社会言語学を教えるかたわら
'90年代に入ると学徒出陣の証言集めに取り組んだ。
その中で『あの集団はなんだったのか』という疑問がわいてきた
'07年2月、脳梗塞で倒れ、回復した後
『やりのこしたことがあるから神様が貴方をいかして
下ったのですよ』と医師から声をかけられた。
元農耕隊員の証言を得たいと教授時代の同僚の
協力をへて韓国の新聞を通じて体験者を募集した。
'08年7月、李さんからようやく連絡があり、今回にいたったという
今後も詳しい話を聞き、報告書をまとめたいという。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2008/08/15 17:57 】

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星の王子様を撃ち落したのは愛読者

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『星の王子さま』で知られるアントワーヌ・サンテグジュペリ
(1900~44)について、ドイツ空軍の元パイロットが
『私が撃ち落とした』と告白した。

告白したのはホルスト・リッペルト氏('08年現在88歳)
'44年7月31日、任地南仏で敵機がレーダーに映ったため出動
マルセイユ方面にむかうところを追跡し、撃ち落したという。
『命中した。機体はつぶれ、海にまっすぐ落ちた。パイロットはみえなかった』
乗っていたのが、コルシカ島連合基地から独占領下の仏国に
偵察飛行にきていたサンテクジュペリと知ったのは数日後。
『彼だと知っていれば撃たなかった』
戦後、独テレビ記者になったが、この件に関して口を閉ざしていたという。
しかし、'03年、マルセイユ沖で飛行機の残骸がひきあげられ
翌年に仏政府が搭乗機の一部と断定。
黙っているわけにもいかなかったのだろう。

航空郵便にも携わるパイロットだったサンテクジュペリは『夜間飛行』など
航空にまつわる名作も残している。
リッペルト氏も愛読者の一人だった
『空の様子やパイロットの心情を見事に描いていた』と話す』
戦争さえなければ、愛読者が作者を撃墜する悲劇は起こらなかったかもしれない。

テーマ:読書 - ジャンル:小説・文学

【 2008/03/25 20:48 】

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